おばけ暦とは
おばけ暦(おばけごよみ)とは、明治時代の改暦後に生まれた、民間で違法に発行された暦のことです。誰がどこで作ったのかわからない正体不明の暦であったことから「おばけ暦」または単に「おばけ」と呼ばれていました。
おばけ暦が生まれた背景
暦から暦注が消滅
明治6年(1873年)政府による改暦が行われ、それまで使われていた旧暦(太陰太陽暦)から新暦(グレゴリオ暦)へと暦が変わりました。
関連記事 旧暦とは?太陰太陽暦はどんな暦だったのか実はこの時、使用する暦が変わっただけでなく、それまで暦に記載されていた暦注が禁止されることになったのです。暦注とは、暦(カレンダー)に記載されている日付以外の、その日の吉凶に関する記述のことです。現代のカレンダーでは六曜や十二直、九星などが該当します。
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明治政府は「科学的ではない」「人々の心を惑わせる迷信だ」として暦注の記載を禁止し、国が発行する公式の暦(官暦)から暦注は姿を消しました。
関連記事 暦注とは?種類や歴史についても解説そして明治時代、暦は政府公認の官暦しか存在しません。今のように民間で自由にカレンダーを発行することは許されておらず、暦は国の厳しい支配下にありました。つまり人々の生活から暦注が記載された暦が突然なくなってしまいました。
おばけ暦の誕生
しかし人々は暦注を求めていました。それまで使用されていた暦(カレンダー)にびっしりと暦注が記載されていたことからも分かるように、当時の人々は暦注を生活のよりどころにしていました。
- この日は婚礼は凶だから結納は別の日にしよう
- 明日は種まきが吉だから新しい種をまこう
- 今月は北東の方角が凶だから気を付けよう
- 今日は万事が凶なので家で大人しく過ごそう
といった具合です。(ちなみに暦注は江戸時代には数百種類あったとされています)
たとえ「非科学的」「迷信」と言われようと、庶民の暮らしに深く根付いていたのです。突然の強引な改暦によって暦注の記述が無くなったカレンダーは、とても寂しく空虚に感じたことでしょう。
そうして生まれたのがおばけ暦です。明治政府の目を掻い潜り、ひっそりと生まれた非合法のおばけ暦は、暦注を求める多くの人々に歓迎され、高い需要がありました。需要があれば、たとえリスクがあっても儲けたいと考える人がいます。おばけ暦は政府による取り締まりを受けながらも、撲滅されることなく根強く生き残りました。
おばけ暦のその後
明治の改暦後、違法な暦でありながらしぶとく生き延びてきたおばけ暦ですが、太平洋戦争の末期(1941年頃)になると、物資が不足し、紙も貴重品になります。本を作ることさえ難しいこの時におばけ暦の発行など言語道断。取り締まりは一層厳しくなり、そもそも紙が手に入らないため暦の発行もできず、おばけ暦は激減します。
転機を迎えたのは終戦後の1946年(昭和21年)、GHQの命令により出版が自由化され、民間でも暦を発行することができるようになりました。これにより、それまで国の公式とされてきた官暦は民間暦の一つに過ぎない存在となり、おばけ暦という呼び方も消えていきました。
現代でも「○○運勢暦」「○○開運暦」といった暦注がたくさん記載された暦(カレンダー)がありますが、これらはおばけ暦の末裔と言える存在です。
現代の日本で正確な暦を作成しているのは国立天文台です。太陽や月の位置、その他専門的な項目から正確な暦を作成し、毎年2月の官報で翌年の暦を発表しています。このとき祝日や二十四節気、雑節、月食、日食などの情報も「暦要項」としてまとめて発表されます。現代のカレンダーはこの情報に基づいて作られています。
おばけ暦の詳細
見た目
「明治17年農家便覧」表紙(おばけ暦のひとつ)国立国会図書館デジタルコレクション
おばけ暦は、明治政府による摘発を逃れるため「民用日記」「農家便覧」などの名称で流通されていました。足がつかないよう暦の発行所は転々と場所を変え、発行人の名前も発行所の住所も架空のものでした。発行人名には「藤の井徳兵衛」「福永嘉兵衛」のように、やたら縁起の良さそうな名前が使われていたようです。見た目は政府公認の暦とほとんど同じで、なかには政府公認の証である証紙を模して、偽の証紙を張り付けたものまでありました。
また、お店の広告に略暦を加えた引札(ひきふだ)の体裁をとった引札暦(ひきふだごよみ)もありました。引札とは、江戸~大正時代にかけて使われていた商店・問屋・仲介などの宣伝用のチラシです。引札にはお店の名前や連絡先、きれいな絵が描かれていて、これの空きスペースに暦を加えたものが引札暦です。これは「暦」とみなされないので発行しても問題がなく、暦があることで一年間壁に貼って使ってもらえるため、お店の宣伝としても効果的な方法でした。
略暦(りゃくれき)…民間が出版する一枚刷りの暦のこと。改暦後しばらくは許可制だったが、明治15年に出版が自由化された内容
改暦前の暦注がすべて記載されていたわけではありませんでした。公式に禁止されている暦注を堂々と載せることはさすがに抵抗があったのか、正確に計算するのが面倒だったのか、そこまでの専門知識が無かったのか…、それまでの定番の暦注ではなく、九星、六曜、一粒万倍日、不成就日などの新たな暦注が台頭するようになりました。
「明治17年農家便覧」(おばけ暦のひとつ)国立国会図書館デジタルコレクション
また、おばけ暦には明治の改暦前に使用されていた旧暦が記載されていました。実は旧暦は、改暦当初は政府が発行する官暦に併記されていたものの、「官暦に記載するから新暦が普及しないのでは」という批判を受けて、明治43年(1910年)以降は記載されなくなりました。
改暦後も、年中行事などを旧暦の日付で行う地域は多く(特に七夕やお盆など)、旧暦中に亡くなった故人の命日の把握や、潮の満ち引きを知るために月齢が知りたい漁師さん、農作業の助けとなる季節の節目が知りたい農家さんにとって、旧暦は無くてはならないものでした。
「明治17年農家便覧」(おばけ暦のひとつ)国立国会図書館デジタルコレクション
おばけ暦は国が認めた暦の専門家が監修して作られたわけではありません。そのため必ずしも正確な暦とは言えず、おばけ暦同士で内容に食い違いが生じることもありました。特に暦注の九星は流派によって違いがあるので、食い違うことが多かったようです。