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八朔とは?しきたりから果物との関連まで紹介

稲の花

八朔とは

2024年9月3日八朔(はっさく)です。

八朔は本来、旧暦の8月1日にあたることから八月朔日」と呼ばれており、これが省略されて「八朔」となりました。

昔の人々が八朔の日に行うことは、大きく分けてふたつありました。ひとつは、農作物の豊作を田の神様に願うこと。もうひとつは、お世話になった人たちへの贈り物をすることです。

朔日・・・旧暦では毎月1日目の月は新月(=朔)。このことから、月の始めの日(1日)のことを「朔日(さくじつ/ついたち)」と呼ぶようになった。 旧暦について、詳しくはこちら 旧暦とは?

八朔の日は何をする?

田の神に感謝し、豊作を祈る

稲の花

稲の花

田植えや草取りも終わる八朔の時期は、農家の人々にとってはようやく一息つける頃。ちょうど稲が、白く控えめな花を咲かせる時期とも重なります。人々は刈り取った稲の若い穂を、水田の神様へ感謝を込めて供えました。そして、稲の無事な生育と豊作を祈ったのです。

このしきたりはやがて「穂掛祭(ほかけまつり)」という名の神事となり、現在でもさまざまな地域で執り行われています。

一方、八朔は、台風が来る可能性の高い時期でもありました。そのため八朔の日は、農家にとっての三大忌日(いみび)のひとつとしても数えられています。地域によっては、台風の大風による作物の被害を減らそうと、二百十日や二百二十日に行われる風祭を八朔の日に執り行ったところもあったといいます。

農家の三大忌日・・・八朔と、雑節の「二百十日」、「二百二十日」を総称して、農家の三大忌日と呼ぶ。農家の人々はこれらの日を、台風が上陸しやすい日として警戒した。 風祭(かざまつり)・・・荒ぶる風を鎮め、作物の成長を神に祈る祭事。 二百十日と二百二十日について、詳しくはこちら 二百十日/二百二十日とは?

お世話になった人へ贈り物をする

八朔の日には、いつもお世話になっている人へ贈り物をする風習もありました。贈り物をする相手は、師匠や仲人、嫁ぎ先、実家など。農民や町人の社会で生まれたこのしきたりは、やがて武家や公家にも広がっていきます。武家や公家にとって八朔は、主従間で贈答品を贈り合い絆を確かめる大切な日となったのです。

地域によっては、刈り取った稲の穂を感謝の印として人に贈ることもありました。

きじまろ君の顔

ちなみに、この贈り物をするというしきたりは、八朔の日に「田の豊作を願う」という風習から起こったと考えられています。

上で述べた通り、もともと八朔は田の神様に作物の実りを祈る日でした。このことから八朔は、「田の実(たのみ)の節句」とも呼ばれていたのです。「田の実」がいつしか「頼み(たのみ)」へ変化し、「いつも頼みにしている(=お世話になっている)人へ贈り物をする」という風習が生まれました。そのため、「田の実の節句」は、「憑(たのみ)の節句」と書かれることもあります。

憑・・・「憑」という字には、「頼りにする」や「寄りかかる」といった意味も含まれている。

日頃の感謝を込めて贈り物をし合うという風習は、稲の刈り入れという大仕事を前に、人と人との結びつきを強めるという意味合いがあったのではないかといわれています。

地域によってはこんなしきたりも

八朔休み

近畿地方では、八朔の日に農作業などが休みになる「八朔休み」の風習が知られています。

また、農作業の合間に許されていた「昼寝」は、この日で終了。さらに八朔の日は、夜なべ仕事の開始日でもあったため、この日を境に人々は慌ただしくなっていきました。

この風習は群馬県にもみられ、「鬼節供」という名で呼ばれています。

昼寝・・・暑い中で行われる農作業(田植えなど)は激務であることから、昔は畑仕事の合間に昼寝をする慣習があった。ただし夏の時期だけに限られており、その終わりが八朔の日だった。
八朔は婿の泣き節供

夜なべ仕事では、囲炉裏を囲みながら縫い物をしたり、草履を編んだりしました。奉公人たちも忙しくなるため、八朔の日に食べる風習のある牡丹餅は「八朔の苦餅(にがもち)」とか「八朔の涙飯」などと呼ばれました。

八朔は農家の人や奉公人にとって、あまりうれしくない節目の日だったようです。

祝儀の日

京都において八朔の日は「祝儀の日」。お中元の挨拶回りはこの日から始まります。

特に花街の芸妓さんや舞妓さんたちにとって、八朔はとても大切な日。毎年この日は、お茶屋さんや、いつも厳しく指導してくれる芸事の師匠のもとを訪ねて、感謝の贈り物を渡すのです。この慣習は現在でも続いています。

ショウガ節句

静岡県や埼玉県、群馬県では、八朔の日を「ショウガ節句」とも呼びます。

ショウガ節句の由来は、八朔の日に新妻がたくさんのショウガ(生姜)を持たされて実家に帰ることからです。このショウガは、「まったく、仕方のない(=しょうがない)嫁だこと」という嫁ぎ先からのメッセージ。

対して実家からは「しょうがない娘ですが、どうか見(み)直してやってください」という意味を込めて「箕(み)」を持たせ、嫁ぎ先に戻らせるのだとか。今の時代では考えられないですが、昔の人たちの八朔のしきたりです。

箕・・・穀物を乗せて振るうことで、不要なゴミや殻などを取り除く農具。

新妻が実家から持たされる箕(み)には「早く妊娠しますように(=身(み)持ちになりますように)」という願いが込められているともいわれています。

きじまろ君の顔

タノモ人形

中国・四国地方では、馬や鶴、亀、狛犬など、動物をかたどった「タノモ人形(八朔人形)」を米の粉で作って飾る風習があります。地域によっては、穢れを清めるためにタノモ人形を海へと流したり、初めて生まれた男の子への祝いとして、藁で編んだ馬を贈ったりすることも。この風習は「八朔の馬節供」とも呼ばれます。

「タノモ」の語源

もともとは新米で作られていたというタノモ人形。

「タノモ」の語源は、「田の面(たのも)」であるとも、「頼もう」であるともいわれています。

八朔御祝儀

八朔御祝儀は、江戸城で行われる大切な行事のひとつでした。

1590年(天正18年)の8月1日(八朔)は、徳川家康が江戸城へ初めて入城した日にあたります。そのため八朔の日は、江戸幕府において重要な記念日とされ、毎年大名や旗本たちがそろって登城。白帷子(しろかたびら)を身に着けた彼らは将軍に対して口々にお祝いの言葉を述べ、贈り物をしたのです。

果物の「はっさく」との関連は?

ところで「八朔」と聞くと、柑橘類の「はっさく(八朔)」を真っ先に思い浮かべる人もいるのではないでしょうか。実は暦の八朔は、果物のはっさくの語源となったのです。

果物のはっさくの樹が初めて見つかったのは、1860年(万延元年)の広島県でのこと。樹が発見された恵日山浄土寺の住職・小江恵徳氏は樹の様子を見て、「この樹に生る実が食べられるのは、八朔の頃だろう」と言ったのだとか。この発言がもとで、この樹は「はっさく(八朔)」と呼ばれるようになりました。

はっさくが美味しくいただけるのは、2月~3月にかけて。

その名と同じ八朔の時期の実は小さく、まだ食べ頃ではありません。

きじまろ君の顔
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